アスペルガーの傾向を持つパートナーといると、何か自分が受け止めてもらえていないという気持ちから孤独を感じてしまう方が多いのではないでしょうか?
私もカサンドラ状態になったときは「受け止めてもらえない」とか「批判されている」と感じて孤独になっていました。
今はカサンドラの状態を抜け出しているので、最近はいろいろと冷静に観察できるようになってきました。
でも、それができるようになると…どこか私自身もアスペルガー的な対応をしていることがあるかもしれないなと思うようになりました(汗
そんなことをちょっぴり感じたエピソードをご紹介したいと思います。
この記事をお読みになると、ちょっと視点がかわって相手に「否定されているわけではない」と思えるようになるかもしれませんよ。
今回は相手が父だったのですが、「お前は批判が多い」という指摘を受けたのです。
どんな話の流れでそうなったのか、というとまず最初は「コロナワクチン接種」の話だったんですね。
父は70歳を過ぎていて、すでにワクチン接種を終えているのですがこう言いました。
「ワクチン接種しないなんで非国民だ。」
「まあ、そういう人もいるでしょうよ」とは思っていました。
ただ、私はワクチンを積極的に接種したくないと考えている人です。
インフルエンザのワクチンを打ってもインフルエンザにかかったことがあるし、友人でもワクチン打ってもインフルエンザにかかるというケースは結構多いです。
さらに、ウチの子供がインフルエンザワクチンの2回目を接種した夜に、真っ赤な湿疹が体中出てくるのを目の当たりにしているので「良いもの」とはあまり思えていないのです。
もちろん今回は「コロナワクチン」ですから、インフルエンザと同じことになるかどうかはわかりませんが「発疹」があまりにも酷くて、若干トラウマになっているとも言えます。
ですから、できるだけ「打ちたくない」のが本心です。
陰謀説なんていうのも聞きますが、私はどちらかと言えば「性善説」で世界を見ていたいひとなので、ワクチンなども信頼したい気持ちはあるのです。
ただ、先ほど申し上げたようにインフルエンザワクチンのアレルギー反応を目の当たりにしているので、「カラダは喜んではいないな」と思っているだけのことです。
そんな考えがあって父には「私はあんまり打ちたくないんだよな」と言い、理由を問われ「子供の身体に起きた異変を目の当たりにしてるから」と伝えたのです。
もちろん、ワクチン接種によって重症化しないというのが本当なのであれば、ワクチンを接種してしかるべきものかもしれないという考えはあります。
ただ、私は自分の気持ちを正直に伝えたまでのこと…のはずでした。(あくまでも自分の中では)
この話の相手が友人だったのであれば、そこまで伝えることなく、非国民は言い過ぎかもしれないけど「確かにね~」なんて相槌をうっていたかもしれませんね。
しかし、その後、別の話題に切り替わったのです。
私自身の子供の登校拒否が2日続いたあとでしたので、子供の話しをしはじめました。
「担任の先生から電話があって、なんか違和感を感じるなぁと思っていたら…実は昨年その先生の担当していた男の子が学校を辞めて…」といった話をしたのですが、父から話を遮られ「お前は批判が多いよな。」と指摘をうけました。
「しょせん何事も、自分の考え方次第だと思うが、お前はすぐ批判をする。」と言われたのです。
新しい話題に移り、私が父に伝えようとしていたことは他人の批判がしたかったのではなかったので正直「は?何言ってんの?こっちは批判を言いたいわけではないのに」と思ったのです。
私は先ほどの話題で伝えようとしたことは、「学校の批判」では無くて、こういうことがあったらしくて…という話をしたかっただけだったのです。
まあ、なんというか家族だからちょっと聞いてもらおうか?くらいのことではありました。
それを父は「批判」と、うけとったようなんです。
「お前は批判が多いよな。」という言い方にカチンとはきました。
今回の学校や先生の話をするにあたって、まったく批判しようという頭は無かったのです。
だた、その先生が担任していた、私の友人の子供が高校3年を直前にして、別の学校に転入することになったんだけど、そうとうその先生に追い詰められたという話を聞いていたのでそれを伝えようとしていただけでした。(その友人の子に同情している面はありますが、先生の対応が適切ではないような気はしていました…)
しかし父からは前述のように話を遮られて「お前は批判が多いよな」と言われてしまいました。
私の話を全て聞いていない、にもかかわらず「お前は批判が多い」と言われてしまった。
それはひょっとしたら私の日頃の話が批判が多いのかもしれません。
まあ、残念ながら自分の事って、自分が一番わかってないんですよね。
人のことは客観的に見えるから分かるんですけど…自分のことは鏡に映さないとわからない。
そして、目に見えない自分自身の感情の鏡っていうのは「他人の反応(フィードバック)」なのですよね。
だから私は「父からは批判が多いとみられているんだな」と受け止めて、おとなしく父からどう見えているかをおとなしく聞かせてもらったのです。
話しの順番を逆にふりかえってみました。
私は子供の登校拒否の話の際に学校や先生を「批判」したいわけではなかった。(私の中の事実)
↓↓↓
でも父はそれを「私が学校や先生を批判しようとしている」と受けとった。(まだ批判を口にはしていなかったのに)
↓↓↓
私はなぜ、父は「私が他人を批判しようとしていると考えたのか?」ということを想像してみました。
↓↓↓
すると、その前にしていた「ワクチン接種」についての話題を思い出したのです。
↓↓↓
父の「非国民」という言い方に対し、私は自分の考えと経験を述べただけのつもりだったが、父は、私が意見したことに対して自分に対する批判の言葉と受け取ったのではないか?というところに行きつきました。
「ああ、私がアスペルガー傾向の夫に批判されている、と感じるのもこういうことがあったかもしれない。」と。
ただ、夫は彼の中で思ったことを、率直に言っていただけかもしれないなと感じたのです。
それを私が勝手に「批判ととらえた」のかもしれないと思ったのです。
正直言って、父の指摘は心外でしたけど、「私は父からそう見えている」と考えたことで視野が広くなり、父の言い分を聞きながら色々とさかのぼって考えてみたのです。
この流れの解釈が正しいかどうかはわからないのですが、夫の私への対応の仕方もそれだったのかもしれないな、と感じることができました。
でもその「否定とか批判と受け止められる言葉」を聞いただけで「はぁ?何?私の言うことを否定するわけ?」って感情がすぐに湧いてくることが多いし、日常生活に追われて余裕がないと私がやったように、相手の言葉の背景を色々考えたりすることもなく、反射的に怒りににた感情にまかれてしまうことが多くなってしまうんですよね。
特に今までパートナーに傷つけられてきた、と感じるカサンドラさんは…相手に対する怒りの感情が何層にも積み重なっているので、感情にまかれてしまいやすいのです。
感情にまかれて、その怒りを怒りとして吐き出すのではなく今までの話の流れを考えてみたり、相手の話を自分の感情から離れて淡々と聞いてみると、何かヒントのようなものが見えてくることがあると思います。
読んでくださっている方に伝わっているとよいのですが、カサンドラさんとアスペルガーさんのコミュニケーション上、よく起こりそうなことなのではないかと思い記事にしてみました。
あなたに思い当たることはありませんか?
コメント